はじめに
職場でのメンタルヘルス対策が重要性を増す中、上司のコミュニケーションスキル、特に「聴く力」が注目を集めています。上司が部下の話をどのように聴くかは、職場の人間関係や生産性に大きな影響を与えると考えられていますが、これまで科学的な検証は限られていました。
岡山大学大学院のSachiko Mineyama氏らの研究グループは、上司の「積極的傾聴(アクティブリスニング)」のスキルと態度が、部下の職場環境認識や心理的ストレス反応にどのような影響を与えるのかを実証的に検討しました。今回は、Journal of Occupational Healthに掲載されたこの興味深い研究について、詳しく解説していきます。
研究の特徴と方法
なぜこの研究が重要なのか
これまでの研究では、上司の聴く態度と部下のストレスの関係を調べる際、部下に両方を評価してもらう方法が一般的でした。しかし、この方法では「ネガティブな気分の人は全てをネガティブに評価してしまう」といったバイアスが生じる可能性があります。
本研究の特徴は:
- 上司自身に自分の聴く態度とスキルを評価してもらう
- 部下には職場環境と心理的ストレスを評価してもらう
という方法を採用し、より客観的な関係性の検証を試みた点にあります。
研究の実施方法
調査は関西地方のある醸造会社で実施され:
- 41名の男性管理職
- その直属の部下203名
を対象としました。
上司には「積極的傾聴態度尺度(ALAS)」の短縮版を用いて、以下の2つの側面を評価してもらいました:
- 傾聴態度:相手の意見を尊重し、受け入れる姿勢
- 傾聴スキル:効果的な応答や会話を促進する技術
部下には:
- 職場環境(仕事の要求度、裁量権、上司・同僚からのサポート)
- 心理的ストレス反応(活気、イライラ感、疲労感、不安感、抑うつ感)
について回答してもらいました。
主な発見
1. 上司の傾聴態度と部下の職場環境認識
上司の傾聴態度が高いグループの部下は:
- 仕事の裁量権(自分で判断・決定できる範囲)をより高く認識
- 特に「意思決定の自由度」の面で大きな違いが見られました
これは、上司が部下の意見を真摯に聴く姿勢を持つことで、部下が自律的に判断・行動できる環境が整備されることを示唆しています。
2. 上司の傾聴スキルと職場のサポート体制
興味深いことに、上司の傾聴スキルが高いグループの部下は:
- 上司からのサポートをより強く感じている
- 同僚からのサポートも高く評価している
この結果は、上司の優れた傾聴スキルが、単に上司-部下間のコミュニケーションを改善するだけでなく、職場全体のサポート体制の充実にも寄与することを示唆しています。上司が効果的な聴き方を実践することで、職場全体のコミュニケーションスタイルにポジティブな影響を与える可能性があると言えるでしょう。
3. 心理的ストレス反応への影響
上司の傾聴態度とスキルは、いずれも部下の心理的ストレス反応と密接な関係がありました:
傾聴態度が高い上司の下で働く部下は:
- 不安感が有意に低い
- 総合的な心理的ストレス反応が低い
- 抑うつ傾向も低い傾向がみられた
傾聴スキルが高い上司の下で働く部下は:
- 活気がより高い
- 抑うつ感が有意に低い
- 総合的な心理的ストレス反応が低い
- 疲労感や不安感も低い傾向がみられた
4. 性別による違い
研究チームは、上司の傾聴態度・スキルの効果が部下の性別によって異なるかどうかも分析しました。その結果:
男性部下の場合:
- 傾聴態度の高い上司の下では、仕事の裁量権をより高く認識
- 怒り、不安、総合的なストレス反応が有意に低い
- 傾聴スキルの高い上司の下では、活気が高く、抑うつ感が低い
女性部下の場合:
- 傾聴スキルの高い上司の下では、仕事の裁量権と疲労感に関して好ましい影響
- 全体的に男性部下ほど強い影響は見られない
この性差については、本研究で対象となった上司が全て男性であったことが影響している可能性があります。同性の上司-部下関係の方が、傾聴の効果がより強く表れる可能性が示唆されています。
5. 年齢による違い
年齢層による違いも見られました:
若手従業員(35歳未満):
- 傾聴スキルの高い上司の下で、疲労感、不安感、抑うつ感が有意に低い
- 総合的な心理的ストレス反応も低い
ベテラン従業員(36歳以上):
- 傾聴態度の高い上司の下で、仕事の裁量権をより高く認識
- 心理的ストレス反応については顕著な差が見られない
この結果は、キャリアステージによって上司の傾聴がもたらす効果が異なることを示唆しています。若手従業員は業務上の不安や疑問が多いため、上司の効果的な傾聴がより大きな意味を持つと考えられます。
研究から見えてくる実践的な示唆
職場のメンタルヘルス対策としての「聴く力」
この研究の結果は、職場のメンタルヘルス対策において、上司の「聴く力」の向上が有効な施策となり得ることを示しています。特に注目すべきは、傾聴態度とスキルがそれぞれ異なる経路で効果を発揮している点です。
傾聴態度は主に「仕事の裁量権」を通じて効果を発揮します。上司が部下の意見や考えを受容的に聴く姿勢を持つことで、部下は自律的に判断・行動できる環境にいると感じやすくなります。これは、現代の組織で重視される「エンパワーメント」や「心理的安全性」の醸成にもつながる重要な要素と言えるでしょう。
一方、傾聴スキルは主に「職場のサポート体制」を通じて効果を発揮します。上司が適切な応答や質問を行い、効果的な対話を促進することで、部下は必要な時にサポートを得られると実感しやすくなります。この効果は同僚間のサポートにも波及し、職場全体の支援的な雰囲気づくりに貢献します。
キャリアステージに応じた傾聴の重要性
研究結果は、部下のキャリアステージによって異なるアプローチが必要であることも示唆しています。
若手従業員に対しては:
- 具体的な指示や説明を求められる場面が多い
- 業務上の不安や疑問を抱えやすい
- 上司の効果的な傾聴スキルが重要
- 特に「どのように聴くか」という技術的な側面が重要
ベテラン従業員に対しては:
- 自律的な判断・行動の機会を求める傾向
- 上司の受容的な傾聴態度がより重要
- 「どのような姿勢で聴くか」という態度面が重要
組織における実践的な取り組み
研究結果を踏まえ、組織として以下のような取り組みが推奨されます:
管理職研修の充実
- 傾聴の態度面とスキル面の両方をカバー
- ロールプレイング等の実践的な訓練の導入
- 定期的なフォローアップの実施
評価システムへの組み込み
- 管理職の評価項目に「傾聴力」を含める
- 具体的な行動指標の設定
- 部下からのフィードバックの活用
組織文化の醸成
- 対話を重視する価値観の共有
- 心理的安全性の確保
- コミュニケーションの機会創出
個別アプローチの促進
- 部下の性別や年齢に応じた対応
- キャリアステージに合わせた支援
- 定期的な1on1ミーティングの実施
研究の限界と今後の課題
この研究は貴重な知見を提供していますが、いくつかの限界点も存在します。これらを理解することは、結果の解釈や今後の研究の方向性を考える上で重要です。
横断的研究デザインの制約
本研究は一時点での調査(横断研究)であり、因果関係を明確に示すことには限界があります。例えば、「上司の傾聴が部下のストレスを軽減する」という解釈だけでなく、「部下のストレス状態が上司の傾聴行動に影響を与える」(クロスオーバー効果)という可能性も否定できません。
さらに興味深いのは、部下の心理状態が社会的サポートの認知に影響を与える可能性です。つまり、心理的に健康な状態にある人の方が、周囲からのサポートをより積極的に認識できるかもしれません。これらの複雑な相互作用を理解するためには、長期的な追跡調査(縦断研究)が必要でしょう。
女性管理職データの不足
本研究では対象となった管理職がほぼ全て男性であり、女性管理職の傾聴態度やスキルの効果を検証することができませんでした。現代の組織では女性管理職が増加傾向にあり、性別による影響をより包括的に理解することが重要です。特に:
- 女性管理職の傾聴スタイルの特徴
- 部下の性別との相互作用
- 組織文化や業界特性との関連
などは、今後の重要な研究課題となるでしょう。
測定方法の課題
研究で使用された積極的傾聴態度尺度(ALAS)は自己報告式の測定ツールです。これには以下のような潜在的な問題が含まれます:
社会的望ましさバイアス
- 管理職が自身の傾聴態度やスキルを実際より良く評価する可能性
- 組織の期待に沿った回答をしてしまう傾向
自己認識と実際の行動のギャップ
- 自身の傾聴行動を客観的に評価することの難しさ
- 実際の対話場面での行動との乖離
これらの課題に対処するためには、例えば:
- 実際の対話場面の観察
- 第三者による評価
- 複数の評価方法の組み合わせ
といった、より包括的な測定アプローチが必要かもしれません。
組織コンテキストの影響
本研究は単一の企業で実施されました。この点について考慮すべき要素として:
業界特性の影響
- 製造業特有の組織文化や管理スタイル
- 労働環境や職務特性による影響
組織規模の影響
- 上司と部下の関係性の特徴
- コミュニケーション構造の違い
組織文化の影響
- 傾聴や対話を重視する程度
- 心理的安全性の水準
これらの要因が結果にどのような影響を与えているのか、より広範な組織での検証が望まれます。
研究の意義と今後の展望
より広い文脈での位置づけ
この研究は、職場のメンタルヘルス対策において重要な転換点を示唆しています。従来の対策は、主にストレス管理やレジリエンス強化といった個人レベルのアプローチや、労働時間の管理など制度面での対応が中心でした。しかし、本研究は日常的なコミュニケーション、特に上司の「聴く力」という、より根本的な組織の質に着目しているのです。
考えてみれば、私たちは職場で多くの時間を「聴く」「話す」というコミュニケーション行動に費やしています。特に上司との対話は、仕事の方向性や意味づけに大きな影響を与えます。この研究は、そうした日常的なコミュニケーションの質が、職場のメンタルヘルスを左右する重要な要因であることを実証的に示したと言えるでしょう。
新しい知見がもたらす可能性
特に注目すべきは、傾聴の「態度」と「スキル」が異なる経路で効果を発揮するという発見です。これは、職場でのコミュニケーション改善に向けて、より精緻なアプローチが可能であることを示唆しています。たとえば:
若手育成の場面では: 上司は具体的な傾聴スキル(適切な質問、要約、確認など)を意識的に活用することで、若手の不安や疲労感を軽減できる可能性があります。新入社員が初めての業務に取り組む際、上司が「どのように感じていますか?」「具体的にどんな点で困っていますか?」といった質問を効果的に用いることで、適切なサポートを提供しやすくなるでしょう。
ベテラン社員のマネジメントでは: 受容的で尊重する傾聴態度がより重要になります。経験豊富な社員は自身の専門性や判断に自信を持っていることが多く、上司には「指示」よりも「理解と支持」が求められます。たとえば、新しいプロジェクトの提案に対して、まずは十分に話を聴き、その意図や背景を理解しようとする姿勢を示すことが、社員の自律性とモチベーションを高めることにつながります。
今後の研究への展望
この研究を土台として、以下のような方向での研究の発展が期待されます:
長期的な効果の検証
組織での傾聴トレーニングの実施前後で、職場環境や従業員のメンタルヘルスがどのように変化するのか、時系列での変化を追跡する研究が有用でしょう。これにより、介入の効果をより明確に把握することができます。多様な組織での検証
異なる業種、規模、文化を持つ組織での研究を通じて、findings(知見)の一般化可能性を検討する必要があります。特に、リモートワークが普及する中、オンラインでのコミュニケーションにおける傾聴の効果についても調査が求められます。より詳細なメカニズムの解明
なぜ傾聴が効果を持つのか、そのプロセスをより詳細に理解することが重要です。たとえば、上司の傾聴が部下の自己効力感や組織への信頼にどのように影響し、それがストレス軽減につながるのか、といった心理的メカニズムの解明が期待されます。
実践的な提言:組織が取り組むべき具体的なステップ
上司の「聴く力」が職場のメンタルヘルスに重要な影響を与えるという本研究の知見を、実際の組織でどのように活かせばよいのでしょうか。段階的なアプローチで考えてみましょう。
ステップ1:現状の把握と理解
まず組織は、現在の管理職の傾聴レベルと職場環境の状況を正確に把握する必要があります。このプロセスは以下のように進めることができます。
管理職の傾聴力評価では、本研究で使用されたALAS(積極的傾聴態度尺度)のような客観的な測定ツールを活用します。しかし、単なる数値の測定だけでなく、より包括的な評価を行うことが重要です。たとえば、一対一の面談やグループディスカッションを通じて、管理職が日常的にどのようなコミュニケーションスタイルを取っているのか、質的な情報も収集します。
同時に、従業員の職場環境認識やストレス状態についても調査を行います。この際、単にストレスの有無を問うのではなく、「上司とのコミュニケーションで困っていること」「より良い対話のために必要だと感じること」といった具体的な課題も把握するようにします。
ステップ2:傾聴力向上プログラムの設計
現状把握に基づいて、組織に適した傾聴力向上プログラムを設計します。本研究の結果から、プログラムには「態度」と「スキル」の両面をカバーする必要があることがわかっています。
傾聴態度の育成では、以下のような要素が重要です:
- 相手の意見を受け入れる姿勢の重要性についての理解
- 自己の判断や先入観を一旦脇に置く練習
- 相手の立場に立って考える視点の獲得
傾聴スキルの向上では、具体的な技術を段階的に学びます:
- 適切な質問の仕方(開かれた質問、明確化のための質問など)
- 相手の話を要約して確認する技術
- 非言語コミュニケーション(うなずき、アイコンタクトなど)の活用
ステップ3:実践と定着のための仕組みづくり
学んだ傾聴スキルを実践に移し、組織に定着させるための仕組みが必要です。以下のような取り組みが効果的でしょう。
- 定期的な1on1ミーティングの制度化
これは傾聴スキルを実践する絶好の機会となります。ただし、単に時間を設定するだけでなく、以下のような工夫が重要です:
- 明確な目的と構造の設定
- 話題の優先順位づけ
- フォローアップの確実な実施
- ピアサポートグループの形成
管理職同士が経験や課題を共有し、互いに学び合える場を作ります:
- 定期的な事例検討会
- 成功体験の共有
- 課題解決のための相互アドバイス
ステップ4:より広い組織文化の変革へ
傾聴力の向上は、単なるスキルトレーニング以上の意味を持ちます。本研究の結果が示唆するように、上司の傾聴は職場全体のコミュニケーション環境や心理的安全性に影響を与えます。そのため、より包括的な組織文化の変革という視点で捉える必要があります。
組織文化の変革において特に重要なのは、「対話を通じた相互理解」を組織の中核的な価値観として位置づけることです。たとえば、ある企業では、上司が部下の話を十分に聴かずに即断即決することを「拙速な判断」として警戒する文化が根付いています。この組織では、重要な意思決定の前には必ず関係者の声を聴くことが暗黙の了解となっており、それが組織の強みとなっているのです。
しかし、このような文化の変革には時間がかかります。まず経営層が、傾聴を重視する理由と意義を明確に説明し、自らが率先して実践する必要があります。たとえば、経営会議の場で「この件について、現場の声をどれだけ聴いていますか?」という問いかけを習慣化することで、組織全体に傾聴の重要性が浸透していきます。
ステップ5:効果測定と継続的な改善
組織の取り組みが実際にどのような効果をもたらしているのか、定期的な評価と改善が欠かせません。本研究で使用された指標を参考に、以下のような観点から効果を測定することができます。
職場環境の変化:
- 仕事の裁量権に対する認識
- 上司・同僚からのサポート感
- コミュニケーションの質と頻度
従業員の心理的側面:
- ストレス反応の変化
- 仕事への意欲や活力
- 組織への信頼感や帰属意識
これらの指標を定期的にモニタリングし、その結果に基づいてプログラムを改善していきます。たとえば、若手社員のストレス反応が高いことが判明した場合、上司の傾聴スキルトレーニングにより多くの実践的な要素を取り入れるといった対応が考えられます。
最後に:傾聴がもたらす組織の未来
本研究は、上司の傾聴が職場のメンタルヘルスに重要な影響を与えることを科学的に示しました。しかし、その意義はメンタルヘルスの改善にとどまりません。効果的な傾聴は、イノベーションの創出や組織の学習能力の向上にもつながる可能性があります。なぜなら、心理的に安全な環境で自由な対話が行われることで、新しいアイデアが生まれやすくなり、失敗から学ぶことも容易になるからです。
今後の組織には、従来の階層的なコミュニケーションから、より対話的で相互理解を重視するコミュニケーションへの転換が求められるでしょう。その意味で、本研究は組織の未来を考える上で重要な示唆を提供しているといえます。一人ひとりの管理職が傾聴の重要性を理解し、日々の実践を積み重ねていくことが、より健全で創造的な組織づくりの第一歩となるのです。
参考文献
本記事は、以下の主要な研究論文をベースに作成されています:
Mineyama, S., Tsutsumi, A., Takao, S., Nishiuchi, K., & Kawakami, N. (2007). Supervisors’ attitudes and skills for active listening with regard to working conditions and psychological stress reactions among subordinate workers. Journal of Occupational Health, 49(2), 81-87.
この研究は、職場における上司の傾聴態度・スキルと部下の心理的ストレス反応の関係を実証的に検討した重要な論文です。特に注目すべきは、上司と部下それぞれから独立したデータを収集し、より客観的な分析を行った点です。
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