はじめに
「従業員が幸せな企業は、業績も良い」
この直感的な考えは、本当に正しいのでしょうか? また、もし正しいとすれば、なぜそうなるのでしょうか?
今回は、The Wiley Encyclopedia of Managementに掲載されたChristine T. Ennew教授による「The Service-Profit Chain」の研究を中心に、この重要な問いについて探っていきたいと思います。
サービス・プロフィット・チェーンとは
サービス・プロフィット・チェーン(SPC)は、1994年にJames Heskettらによって提唱された概念です。この理論の基本的な前提は驚くほどシンプルです:
「従業員を大切にすれば、従業員は顧客を大切にし、その結果として満足した顧客が収益をもたらす」
この概念は、教育者、研究者、実務家、コンサルタントの間で広く受け入れられており、Googleでは120万件以上の関連記事が見つかり、主要な学術データベースでも1400件以上の研究論文が報告されています。
SPCモデルの構造
SPCモデルは、以下のような因果の連鎖として説明されます:
- 内部サービス品質:
- 職場環境の設計
- 職務設計
- 従業員の選抜と育成
- 報酬と認識
- 顧客サービスのためのツール提供
- これらの要素が従業員満足度を高め、その結果として:
- 従業員の定着率が向上
- 生産性が向上
- サービス品質が向上
- 高品質なサービスは:
- 顧客により大きな価値を提供
- 顧客満足度を向上
- 顧客ロイヤルティを強化
- 最終的に:
- 収益の成長
- 収益性の向上
につながります
実証研究から見える実態
このモデルの有効性を検証するための実証研究は、測定と情報収集の複雑さから困難を伴うものでした。しかし、いくつかの重要な研究が行われています:
1. 米国の小売銀行の研究(Loveman, 1998)
- 報酬制度、顧客志向、マネジメントの質が従業員満足度にプラスの影響
- ただし、従業員満足度と顧客満足度の関係は弱い
- 顧客満足度→ロイヤルティ→財務業績の連鎖は確認
2. ブラジルの銀行研究(Kamakura et al, 2002)
- 個別顧客データと支店レベルデータを組み合わせて分析
- SPCの全てのリンクで有意な関係を確認
3. 金融サービス業の研究(Larivière, 2008)
- 顧客指標と業績指標の関連を確認
- 時系列分析により、関係性の複雑さも発見:
- 非線形的な関係の存在
- セグメントによる違い
- 時間による変化
研究結果から見えてくる複雑な現実
しかし、全ての研究がSPCモデルを支持する結果を示しているわけではありません。業界や状況によって、異なる結果が報告されています。
小売業における発見
イギリスの大手小売業を対象とした研究(Silvestro & Cross, 2000)では、興味深い結果が示されました。店舗の収益性と従業員満足度の間には、予想に反して負の相関が見られたのです。ただし、顧客に関連する部分(顧客満足度とロイヤルティの関係など)については、SPCモデルを支持する結果が得られています。
同様に、イギリスの大手ホームセンターを対象とした研究(Pritchard & Silvestro, 2005)でも、従業員満足度と顧客満足度の間に有意な関連は見られませんでした。
銀行業界の事例
イギリスとアイルランドの銀行を対象とした研究(Gelade & Young, 2005)では、従業員の態度と収益の関係において、顧客満足度の媒介効果は弱いものでした。つまり、従業員の満足度が直接的に収益に結びつくわけではないことが示唆されています。
モデルの発展と新しい視点
これらの研究結果を受けて、研究者たちはSPCモデルの更なる発展を提案しています。
顧客期待値の変化への対応
Homburg et al(2009)は、顧客満足度がロイヤルティに与える影響が徐々に限定的になってきていると指摘しています。その理由として:
- 過去の良い経験により顧客の期待値が上昇
- 満足度だけでは差別化が難しくなっている
- より深い関係性構築の必要性
を挙げています。
社会的アイデンティティ理論の導入
同じくHomburg et alは、ドイツの旅行代理店を対象とした研究で、従来のSPCモデルに「社会的アイデンティティ理論」を組み込むことを提案しています。
- 従業員と企業の一体感
- 顧客と企業の一体感
これらの要素を加えたモデルでは、伝統的なSPCの経路よりも強い説明力が得られました。
従業員支援の拡大
Milliaman & Ferguson(2008)は、非営利組織の事例研究から、内部サービス品質の概念を拡張する必要性を指摘しています。具体的には:
- より広範な支援サービスの提供
- 個人的な課題への支援プログラム
- 業務パフォーマンスに影響を与える可能性のある個人的問題へのケア
実務への示唆
これらの研究から、実務家に向けて重要な示唆が得られます:
1. 文脈依存性の認識
- 業界特性による違いを理解する
- 組織固有の要因を考慮する
- 画一的なアプローチを避ける
2. 包括的なアプローチの必要性
- 従業員支援は業務面だけでなく生活面まで
- 組織文化とアイデンティティの醸成
- 長期的な視点での関係性構築
3. 継続的な測定と改善
- 定期的な従業員満足度調査
- 顧客満足度との関連分析
- データに基づく施策の改善
今後の研究課題
SPCモデルの更なる発展のために、以下のような研究課題が指摘されています:
1. 因果関係の解明
- 縦断的研究による時系列分析
- 実験的研究による効果検証
- 介入研究による効果測定
2. メカニズムの解明
- 媒介要因の特定
- 調整要因の探索
- 文脈要因の影響分析
3. 測定方法の精緻化
- 信頼性と妥当性の高い測定方法の開発
- 客観的指標との関連性の検証
- 文化差を考慮した測定方法の確立
結論
SPCモデルは、組織のサービス品質向上と収益性の関係を説明する優れた理論的フレームワークです。しかし、実証研究からは、この関係が想定以上に複雑であることも明らかになっています。
重要なのは、このモデルを単純な因果関係として捉えるのではなく、組織の文脈に応じて柔軟に解釈し、実践していくことでしょう。従業員の満足度向上は確かに重要ですが、それだけでは十分ではありません。組織文化の醸成、アイデンティティの形成、包括的な支援体制の構築など、より広い視点からのアプローチが求められています。
今後もSPCモデルは、組織の発展に重要な示唆を提供し続けるでしょう。ただし、それは理論の単純な適用ではなく、各組織の状況に応じた創造的な解釈と実践を通じてのことだと考えられます。
参考文献
Ennew, C. T. (2015). The Service-Profit Chain. Wiley Encyclopedia of Management, Volume 9 (1-4) – Marketing.
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